悼む力は世界を救うか ー 供養されるキャラクターたち

17/11/13

たとえ存在しなくとも、人は「悼む」ことができる

名優アル・パチーノ主演で『シモーヌ』という映画があります。落ち目の映画監督が、CGで作った完璧な女優シモーヌを使って、再び脚光を浴びるも、シモーヌを実在の人物だと信じる世界中のファンはどんどん熱狂していき...。2002年の映画ですが、バーチャルアイドルの「初音ミク」がヒットした近年の世相を予見していたかのような作品です。

映画『シモーヌ』のワンシーン

中でも印象的なのは、架空の女優シモーヌが亡くなると、大勢のファンたちが涙を流し、心から悲しみながら葬儀に参列する、というワンシーン。たとえ現実には存在しなくとも、その存在を信じることで「愛着」を生み出せる人の性(さが)を、本作ではコミカルに描いています。

力石徹の「死」に集った日本人たち

しかし、実は映画の世界だけではなく、実際に日本でも、架空のキャラクターの葬儀が執り行われていました。それは、1970年に行われた「あしたのジョー」の力石徹の葬儀。講談社講堂で執り行われた告別式には、小中高生から会社員の姿もあったそうです。その他にも、ウルトラマンの円谷プロによる怪獣供養、漫画キャラクターではないですが、SONYの犬型ロボットAIBOの葬式など、その対象に興味がないと少しびっくりするような供養が、日本では実際に行われてきたのです。

力石徹の葬儀の様子

一般的に「供養」というと、親族や親しい友人など「実在の人物」が対象と思われていますが、人の想像力、供養において言うなれば「悼む力」というのは、その概念さえも超越する力を持っているようです。そして、実在であるかどうか、人であるかどうかに関わらず、愛着を持ち、悼み供養する対象が在るというのは、数値では決して量れない、人としての豊かさでもあると思うのです。

悼む力は世界を救うか

CGで作られた女優に一喜一憂する民衆をユーモラスに描いたアメリカ映画「シモーヌ」。この作品をアジア人が観たとしても、微笑ましく感じられるのは、万国に共通する心理観があるからでしょうか。たとえ触れることができない存在でも、種が異なっていても、愛着を形成できる力。それは、人間だけに与えられた特別な想像力なのかもしれません。人は人種差別や偏見など「違い」によって争うこともあれば、その「違い」を乗り越えて、死を哀しむほどに、他己存在に強く愛おしさを抱くこともできます。昭和、平成と様々なキャラクターが供養されてきた日本。未来、年号がいくつ変わっても、どんなに技術が進んでも、人の供養をする心は生き続けるのだと思います。そして、その心が人類の豊かさに繋がると信じて、供養文化を支え続けたいと思います。

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