なぜ「死」はこれほど悲しいのか? - 死を悼む動物たち

18/03/16

ゾウ

「死」の悲しみは人間だけのものか

故人に花を捧げたり、石碑を立てたり、故人を囲み飲食したり、家に写真を飾ったり…「死」という概念を持ってから、人類はそれと向き合うため、さまざまな「弔い」の形を発明してきました。しかし、もし世界から弔いの文化が消えたならー私たち人間はどうやって、「死」という大きなインパクトと対峙するのでしょうか?

供養の文化を持たない(ように見える)動物たちの「弔い」の実例をまとめた一冊の本があります。2014年に翻訳出版されたバーバラ・J・キングの『死を悼む動物』(草思社)では、人類学教授である著者が、猫からはじまり、犬、馬、ウサギ、ゾウ、鳥などの動物が、仲間の「死」に対峙したときのさまざまな反応が描かれています。大切な存在を失う「死」の悲しみは、果たして動物たちにも存在するのかー今回は、『死を悼む動物』から5つの事例とともに、生き物と死の関係性を考えていきたいと思います。

動物たちの「死」への反応

猫

■姉妹を亡くした猫の場合

(ラスティー:残された猫:/ダスティー:亡くなった猫)
ある夜、ダスティーは最期を迎える。そして、ダスティーが息をひきとったまさにその瞬間、ラスティーがひと声、大きく鳴き声をあげたのだ。(中略)ローラはこう書いていた。「ラスティーがあんな声を出すのを耳にしたのはあのときだけ。ダスティーが死んだことを知っていたのかどうかは、よくわかりません」
(41Pより引用)

猫が仲間を亡くした場合、普段は発しないような声で鳴くことは、多く見られている現象で、上記のラスティーの件以外でも、複数の似た事例が報告されています。

ウサギ

■つがいを失ったウサギ場合

(レフティ:つがいのウサギを失ったウサギ/ダイナ:なくなったウサギ)
(レフティが)つがいのダイナを失ったときもいつもと変わらず元気にしていた。(中略)沈んだ気配はなかったが、飼い主のベッドに飛び乗ると、枕をかじって穴だらけにした。(中略)仲間の死に出会うとウサギもまた激しいうつ状態におちいってしまうのだ。あまりにも激しい場合、まったく食事が口にできなくなり、ついには餓死にいたることさえある。
(83Pおよび86Pより引用)

人間でも強いストレスによって、食欲がなくなることがありますが、ウサギのレフティ以外にも、犬、馬、猿、チンパンジー、ゴリラ、ガンなど、さまざまな動物でも、仲間を失ったときに食欲が減退することがあることが報告されています。

馬

■仲間の馬を亡くした馬の群れの場合

(ストーム:亡くなった馬/メアリー:乗馬場でストームに乗っていた女性)
ストームが息をひきとった日の午後、メアリーはストームが眠る場所へひとり歩いていった。大きな塚が築かれていた。塚の前にメアリーはストームが好物にしていた花をたむけた。そのときだ。(中略)「目をあげると、お墓のまわりに六頭の馬がいた。(中略)どの馬もお墓のほうをじっと見ていた。そのときになってハッとした。馬とわたしがいっしょになって、お墓を丸く囲むようにして立っていたの」(中略)翌朝、メアリーがもう一度この場所を訪れたとき、馬はまだそのままでいた。
(63Pより引用)注記:塚=お墓

馬が円陣を組む行為は、専門家によれば「とくに目新しいものではない」と言います。もともとは、弱った仲間を敵の攻撃から守るために、円陣を組み、盾を作ることがあるようですが、その場合は、それぞれの馬が動き回り、敵の侵入を防ぐ動きをとります。しかし、上記のケースだと、馬たちは静止し、じっと仲間の遺体が埋められた塚を見ていたため、また別の意味合いを持っているのかもしれません。

ゾウ

■親友のゾウを亡くした動物園のゾウの場合

(シシー:親友のゾウを亡くしたゾウ)
(親友のゾウの)墓のそばから立ち去る前、シシーはある行動をとっていた。それは人間が目にしたら、驚かずにはいられないようなふるまいだった。あれほど大切にしていたタイヤ、シシーにとってお守りの安心毛布のようなタイヤーそのタイヤをシシーは親友の墓の前に置いていった。ゾウのたむけたタイヤは、数日間そこに置かれつづけていた。
(109Pより引用)

故人が好きだった食べ物や花を供えることは、人間の供養でよく行われる行為ですが、愛着のあるものを手向けることは、人間でもなかなか難しいことだと思います。また、仲間の遺骸に食べ物を手渡そうとする事例は多かったのですが、食べ物以外のものを与える行為は、このゾウのみでした。なお、この件以外にも、亡くなった仲間の遺骸に葉や枝を持ってきて被せるゾウの群れの事例なども紹介されています。

ゴリラ

■友人のゴリラを亡くした動物園のゴリラ ボビーの場合

(ボビー:友人を亡くしたゴリラ/ベベ:亡くなったゴリラ)
(友人のゴリラを)生き返らせようと、体にそっと手を触れたり、声を張り上げたり、しまいには死んだベベの手に好物だったセロリを置きさえしました。しかし、相手が死んでいるのだと悟ると、ホーホーと静かに鳴き出し、それからうめくように鳴き叫んで、檻の格子を激しくたたきはじめたのです。どうしようもない悲しみを訴えているのは明らかで、見るにしのびない光景でした。
(215Pより引用)

現代の医学では、「呼吸の停止」「脈拍の停止」「瞳孔拡大」、これら3つの兆候が見られる場合、ヒトの死を判定しますが、そもそも「死」の概念を持っているかわからない動物の場合、それは相手が「ずっと動かない」ことの恐怖や悲しさ、「二度と戯れることができない」ことの寂しさを意味しているのかもしれません。ボビーの「悟り」の様子は、彼らにもそういった感情があるのではないかと感じさせます。

どうして「死」は、これほどまでに苦痛なのか?

さまざまな動物たちの事例を紹介させていただきましたが、結局のところ、彼らが人間と同じような感覚で「死」を認識しているかは、現時点では明確となっていません。しかし、親しい存在と「生きた状態」で、二度と触れ合えないことが、彼らにとってもストレスとなり、特異な行動を起こさせることが、研究によって分かってきました。この場合、私たちにわかるのは「喪失」の苦痛が、彼らにもあるのかもしれないということです。

しかし、人間の感覚で感じる「喪失」よりも「死」という概念の方が、さらに苦痛を感じさせるのは、なぜなのでしょうか?「喪失」というと、一度は「所有」していたことが前提となります。もともとは持っていたけれど、側から消えてしまったーそれであれば、生きている間の別れなどは「喪失」と言えます。しかし、「死」というのは、対象を所有せずとも、悲しみを感じさせることがあります。会ったことのない有名人の訃報を知ったり、生き物の遺骸を見たときに感じる悲しみは、それが「喪失」ではなく「死」だからこそです。

家族

「生きて会える喜び」を忘れないために

「生きていれば、またいつか会える」

古くから使われている常套句ですが、通信技術や交通手段が発達した今、この言葉はただのロマンチックなセリフに終わらず、強い現実味を帯びています。郵便制度や電話がなかった時代なら「会うのは、これきりかもしれない」という意識がどこかにあったと思います。再会することのハードルが低くなった現代だからこそ、改めて「生きて会えること」の価値を思い出すことが大切になってくるのだと思います。

親戚や親しい友人が亡くなると、葬儀や法事が行われ、日頃、疎遠になっていた親戚や、縁のあった人と再び会うことができます。まるで故人が、みんなが再会するきっかけを作ってくれたようなひととき。人類は死という大きなインパクトと対峙するため、さまざまな「弔い」の形を発明してきました。しかし、それは「死」と向き合うとともに、「生」の有限だからこその価値に、改めて気づくためのものなのかもしれません。

もし、世界から弔いの文化が消えたならーそれでも人類はふたたび、「死」と向き合うための文化を生み出していくのだと思います。動物たちが「喪失」に対して、彼らなりのを反応を示したように、私たち人間にとって「死」ときちんと向き合うことは、人間らしい人生を生きる上で必要不可欠な反応だからです。ぜひ、『死を悼む動物たち』を通して、彼らの本能的な死と生への向き合いに触れてみてはいかがでしょうか?

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