22/6/28
77年前の6月23日、太平洋戦争において国内最大の地上戦となった沖縄戦が終わりました。沖縄県では、その日を「慰霊の日」として毎年様々な式典が行われています。今年も「慰霊の日」について、いろいろ話題になりました。今回は、沖縄戦で犠牲になられた方々へ改めて哀悼の意を捧げるとともに、「慰霊の日」の催しや供養の式典等をご紹介します。この機会に平和への想いを未来にどう伝えていくべきか、考えてみてはいかがでしょう。
今年は沖縄県の本土復帰50周年。改めて沖縄の戦後を振り返る年といえる、今回2022年の「慰霊の日」は、沖縄県民にとって例年以上に特別な日といえます。
太平洋戦争末期、沖縄では住民を巻き込んだ80日余の激しい地上戦が繰り広げられ、20万人以上の人が犠牲になりました。そのうち民間人は推計約10万人。連合軍の本土侵攻を防ぐ時間稼ぎのために、沖縄県民の4人に1人が命を落としたといわれます。この沖縄戦で犠牲になった人々の冥福と世界の恒久平和を祈るため、沖縄県では毎年6月23日の「慰霊の日」に、糸満市摩文仁の平和祈念公園を中心にして多くの行事が行われます。以下、「慰霊の日」の各行事を順追ってご紹介します。
まず前日の6月22日には、恒例となった前夜祭が、平和祈念公園内の沖縄平和祈念堂で行われます。式典には戦没者遺族など多くの人が集い、公園内に設置された「平和の火」から採火した「鎮魂の火」が、聖火台に点火されます。「平和の火」は米軍最初の上陸地である阿嘉島の火と、被爆地の広島と長崎の火を合わせた、まさに平和への願いを象徴する火です。ほかにも「平和の鐘」の献鐘、琉球古典音楽の献奏、灯籠流しなどが行われます(コロナ禍の近年は規模を縮小)。
公園内では、前日と当日の夜に“平和”の文字を大きくライトアップ。さらに5カ国(アメリカ・イギリス・台湾・韓国・北朝鮮)を示す5本のサーチライトによる「平和の光の柱」が上空に照射され、沖縄戦における犠牲者を敵味方の区別なく弔います。
そして6月23日、「慰霊の日」当日。例年は、県内外の遺族や一般の人などが参加し、糸満市役所から、最後の激戦地となった場所にある平和祈念公園まで8.5km、南部の戦地を慰霊しながら歩く「沖縄平和祈願慰霊大行進(平和行進)」が行われます(コロナ禍の近年は中止)。
行進が終わると、公園に沖縄戦犠牲者の遺族や関係者が集まって「沖縄全戦没者追悼式」に移ります。正午には会場だけでなく県内全域で1分間の黙祷。昨年の式典では、玉城知事が平和宣言を読み上げ、「沖縄戦の実相と教訓を次世代に伝え続け、人類社会の平和と安寧を願い、国際平和の実現に貢献」すると誓った上で、「過重な基地負担の解消を図ることを要望する」と訴えました。
このように毎年6月22日と23日は、沖縄県全体が沖縄戦犠牲者への鎮魂の想いと平和への願いに満ちた2日間となります。
参考・参照サイト
沖縄県ホームページ
沖縄県営 平和祈念公園ホームページ
沖縄戦終焉の地である糸満市摩文仁の平和祈念公園内には、平和祈念像がある「平和祈念堂」、沖縄戦の写真や遺品などを展示した「平和祈念資料館」、戦没者の遺骨が眠る「国立沖縄戦没者墓苑」など、沖縄戦の記憶を今に残す施設が集まっています。なかでも、戦争の悲惨さと平和の尊さを強く感じさせるのが、77年前に沖縄戦で亡くなられた方々の氏名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」でしょう。「いしじ」とは沖縄の方言で「いしずえ」のこと。放射状に並ぶ118基の刻銘碑には、犠牲者の数24万1686人(今年の追加刻銘ぶんも含む)の名前がすべて刻まれています。国別、都道府県別にそれぞれの母国語で表記。沖縄県出身者については、太平洋戦争中に県内外で亡くなられた方も含まれますが、国籍や軍人、民間人の区別なく刻まれているところに、命一つひとつを等しく扱う、沖縄の平和への強い想いを見る気がします。
今年の「慰霊の日」に関して特筆すべきは、何といっても「平和の礎」に刻銘されている24万1686人全員ぶんの戦没者の名前が、一人ひとり読み上げられた取り組みでしょう。有志の団体『沖縄「平和の礎」名前を読み上げる実行委員会』の主催により、実際の読み上げは戦争経験者や遺族、地元の中高生など約1500人が交代しながらオンラインで実施。その様子を6月12日から「慰霊の日」当日の23日までYou Tube、ウェブ会議のアプリでライブ配信した取り組みです。24万人以上の名前を一人ひとり読み上げるために、発表されたスケジュールでは、1日あたり22時間✕12日間。単純計算で264時間掛かるということからも、沖縄戦で失われた生命がどれだけ莫大な数だったのか、おわかりいただけるかと思います。
先立つ会見で、「平和の礎」ができた当時知事公室長だった高山朝光さんは、「名前が刻まれている人たちが、もし戦争で亡くならなければすばらしい人生を歩んだであろうということに思いを寄せながら、生きた証しを読み上げてほしい」と話したそうです(NHK NEWS WEB 6月6日配信記事より)。かつて、この世に生を受けながら、戦争で儚くも散っていった人たちがこんなにもいたという事実を実感するだけでも、素晴らしい供養の取り組みといえるのではないでしょうか。ロシアのウクライナ侵攻が続くいま、沖縄の願いがぜひ世界に届いてほしいものです。
参考・参照サイト
OKITIVEホームページ
NHK NEWS WEB
沖縄県民にとって「慰霊の日」は、平和への想いを改めて誓い、発信する特別な日ですが、残念ながら沖縄以外では、全国的にあまり浸透していないようです。沖縄タイムスとyahooの共同アンケートによれば、全国の回答者2000人のうち、75.5%の1509人が「慰霊の日」を“知らなかった”と回答したそうです(沖縄タイムス プラス2021年6月23日付記事より)。
あの日から確かにずいぶん時が経ちました。しかし、経年によって沖縄戦の傷も消えてしまったのでしょうか。戦後の沖縄では米軍占領下で基地がつくられ、今日でもその重い負荷が解消されず、県民を苦しませている面がありますが、こうした苦難の原点は77年前の沖縄戦にあるのも事実です。
奇しくも今年4月、那覇市内の高校生が糸満市の海岸で沖縄戦の日本兵の水筒を発見し、持ち主を探しているというニュースが紹介され、注目を集めました(琉球新聞DIGITAL 2022年4月20日付)。77年経つ今も、戦没者の遺品が見つかる一方で、遺族の所在すらはっきりしないケースがあるということです。記事のなかで、発見した高校生は次のようにコメントしています。“戦後77年もの間、人目に付かず忘れさられようとしていた遺品、遺骨を残す戦没者の願望を思うと、故郷の土、空気に触れられるように努めることがせめてもの供養になると思う”。
戦争で犠牲になった方たちに対し、私たちができる一番の供養は何かを考えるとき、あの過ちと惨禍を決して忘れないように歴史を正しく知り、犠牲者や遺族の気持ちに寄り添い、次の世代に平和の尊さを伝えていくことになるでしょう。それは今を生きる者たちの未来に対する責任でもあります。そして、そうした想いが、今どこかで起こっている、起ころうとしている戦争を止める力に、少しでもつながっていくと信じたいものです。
参考・参照サイト
沖縄タイムス プラス
琉球新報DIGITAL