全国の供養慣習めぐり 〜 秋田県の巻 〜

22/8/23

 日本の供養慣習は、全国各地の慣わしやしきたり等によっても異なり、地域の特性や人々の暮らし、歴史に根付いて大切な行事・催事として続いているものがあります。今回は、都道府県ごとの独特な供養の慣習や行事をご紹介する不定期シリーズの第3弾として、東北地方の北西部に位置する秋田県を取り上げます。秋田県に残る各地の伝統的な供養の行事や話題をご紹介し、その歴史や由来、そこに込められた先人たちの想いを知ることで、供養についてさらに興味を持っていただければと思います。

舟同士が闘う供養の儀式

舟同士が闘う供養の儀式

引用
一般社団法人 横手市観光協会

江戸時代、東北地方は頻繁に飢饉に襲われ、相当数の餓死者が出たといわれます。秋田県横手市では、そうした飢饉の際に亡くなった方々の霊を供養するための行事が二百数十年間受け継がれ、現在でも毎年8月6日と8月15日〜16日に開催されています。県の無形民俗文化財にも指定されている伝統行事の『横手送り盆まつり』です。お盆行事は全国に数多くありますが、先祖の霊を元の世界に送るお盆最後の“送り盆”に、盛大な「祭り」を実施する珍しい催事の一つといえます。御霊を送る意味では各地の行事と同じといえますが、最終日の独特な催しでは、会場全体が熱気と興奮に包まれ、異常な盛り上がりを見せます。
8月6日、『横手送り盆まつり』の初日に行われるのは、「ねむり流し」。町内の子どもたちが、願いを書いた短冊で飾った小舟を、蛇の崎(じゃ さき)川原に向けて、笛や太鼓のお囃子にあわせて繰り出す旧暦7月7日の七夕行事です。そして8月15日には、千人以上が市役所前のおまつり広場に集まり、翌日に行われるメインイベントの主役“屋形舟”を囲みながらの盆踊りが開催され、前夜祭として盛り上がります。そして8月16日、お盆最後の日の夜、「屋形舟繰り出し」が始まると、3日間にわたる祭りはクライマックスを迎えます。
「屋形舟の繰り出し」は、享保の飢饉(1733年頃)の犠牲者を供養するため、精霊舟を作り、法名を書いた短冊を下げ、蛇の崎川原に繰り出したのが始まりとされます。屋形舟は、丸太や木材、稲藁で形作られており、長さ約7m、高さ約4m、重さ約800kg。全体に蝋燭を灯した屋形舟が十二艘ほど、町内ごとに20人ほどの青年たちに担がれ、繰り出されます。この行事は、屋形舟が川原まで行って、御霊を送り、各町内に帰るというものですが、その行き帰りに舟同士の壮絶なぶつかり合いが繰り広げられます。なかでも、川原で供養を済ませた舟が、打ち上げ花火をバックに、蛇の崎橋の上で激突する様子はさながら“ケンカ船”で、多くの観客が湧きます。この舟同士の過酷な闘いは、かつての飢饉時の苦難との闘いにも重なり、一方で力の限りエネルギーを爆発させる威勢の良い若者たちの姿は、まさに生命の讃歌そのもの。かつて悲劇の犠牲になった先祖の御霊を慰めるために始まった行事が、いつしか“生きている”ことへの感謝を、体で表現する儀式に発展したともいえそうです。

参考・参照サイト
一般社団法人 横手市観光協会
旅東北

県内各地に残る供養の獅子舞

県内各地に残る供養の獅子舞

引用
新・秋田の行事

秋田県は、国指定重要無形民俗文化財が17件と国内最多で、約250件の民俗芸能が現存しています。その中に「ささら」と呼ばれる獅子舞があり、県指定無形民俗文化財のものだけでも県内各地に九カ所点在しています。「棒ささら」という木製の民俗楽器の演奏とともに踊られる「ささら」は、一頭の獅子を2人で動かす獅子舞ではなく、一人立ちの獅子を3人それぞれで舞う「三匹獅子舞」です。起源は、慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いで東軍に付いた佐竹家が常陸国(ひたちのくに)から秋田に国替えされた際、佐竹義宣(秋田藩初代藩主)にお供した家臣が、道中の慰安や行く先々の地霊鎮魂を願って、行列の先頭に三匹の獅子を置いて踊った舞が、各村に定着したといわれています。以来、お盆の時期に、先祖の供養や五穀豊穣を祈願して、寺・神社・各町内で継承されてきたようです。秋田県仙北地方に残る県指定無形民俗文化財の「国見ささら」(大仙市)を例に、「ささら」の概要をご紹介しましょう。
秋田の「ささら」は、岩手県から伝わった南部系と、佐竹氏のお国替えにまつわる関東系に大きく分かれますが、「国見さらら」は関東系の流れを組む「さらら」です。演目の舞いは四種類あり、家々を回り路上や神社でも踊る「神立(かんだち)」は、二頭の雄獅子が一頭の雌獅子を争う場面が見せ場です。「神楽」は主に神社で舞い、供養の意味があるとされる「霊慕(れんぼ)」は、集落内の墓場や仏前で踊られます。そして“供養ささら”とも呼ばれる「眠(ねま)り」は、仏の供養の意味を持ち、三頭の獅子の眠りの場面がみられます。
このように先祖を供養するために三頭の獅子が舞う盆行事「ささら」は、各集落で独自性が強く、隣り合う地域でも、芸能のレパートリー、太鼓、笛の旋律等に違いが見られます。県内の各「ささら」は、それぞれに長い歴史を誇りますが、近年は獅子を舞う若い人が減って中止になる地区もあるようです。昔は神社への先陣争いなどで近隣地区の「ささら」にライバル心を持ち、妨害行為なども起きていたとされ、その競争が逆に芸能の伝承につながる側面があったようです。「ささら」に限らず、伝統的な供養行事を各地でどう次代に残し継承していくかは、今を生きる我々の大きな課題といえましょう。

参考・参照サイト
大仙市ホームページ
地域文化遺産ポータル

仏像一万三千体が埋め尽くすお堂

仏像一万三千体が埋め尽くすお堂

引用
男鹿なび

最後にご紹介するのは、伝統行事とは違って、「なまはげ」で有名な男鹿半島に昔からある不思議な供養の場所の話題です。男鹿市北浦真山のなまはげ館や真山神社に向かって登る参道の途中に小さなお堂があります。気づかずに通り過ぎてしまうほど目立たない建物ですが、その中には、四方の壁から屋根裏にわたって、子どもの守護尊とされる小さな木彫りの地蔵菩薩像が、隙間なく整然と並んでいます。その数、なんと約一万三千体!このお堂は、『真山の万体仏』と呼ばれる堂舎で、県指定有形文化財でもあり、観光スポットの多い男鹿半島の中でも、知る人ぞ知る隠れた名所になっています。
『真山の万体仏』の仏像を彫ったのは、江戸時代中期の僧・普明(ふみょう)だと伝えられています。詳細は定かではありませんが、男鹿市教育委員会発行の『男鹿の昔ばなし』(1993年発行)によると、普明は道に倒れていた子どもを助けたにもかかわらず病気で死んでしまったため、供養の思いを込めて杉の木で仏像を彫り始めたと記されています。そして、その結末文は、“いつからか村人たちは、子どもが病気になるとその仏像を借り、枕元に置いて祈ると元気になると信じ、熱心に参詣するようになったと言われています。”との記述があります。
お堂に足を踏み入れると、中は昼でも薄暗いですが、右を見ても左を見ても、どこも高さ約10cmほどの木彫りの仏像で埋め尽くされており、訪れた人々は誰もがその光景に圧倒されつつ、静謐な雰囲気に包まれます。よく見ると一体一体の表情が異なっており、いかに普明がその一つひとつに思いを込めて彫ったかが伝わってきます。中には、無病息災の護符といわれるなまはげの裝束の藁くずを巻いた仏像や、願いの紙片を結んだ仏像、白や赤の布が掛かった仏像なども見え、今でも近隣の人々が厚い信仰心を持って集っていることがわかります。三百年以上も前に、一人の僧が幼い子どもの不幸な死を悼み、供養の意味で彫り続けた一万三千体の地蔵菩薩像が、幾千のときを超えて変わらず大切に思われ続けている…これは地域による立派な“供養の継承”といっていいでしょう。皆さんも、なまはげの地を訪れる機会があれば、『真山の万体仏』にぜひ立ち寄ってみてください。

参考・参照サイト
男鹿市ホームページ
男鹿なび

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