『鎌倉殿の13人』の三人の女性を偲んで

22/12/27

 映画やドラマが大ヒットすると、そのロケ地などを訪ねる“聖地巡り”が話題となります。2022年はNHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が人気を呼び、主な舞台となった鎌倉市では、登場人物ゆかりの場所にドラマのファンが連日多く訪れているようです。そこで今回は、『鎌倉殿の13人』に登場した実在の人物たちにスポットを当て、彼らを敬い、偲び、弔う供養の気持ちが現在までどんな形で残され、祀られ、継承されているかをご紹介したいと思います。ドラマにはとにかく多くの人物が登場しましたが、ここではあえて北条政子、大姫、静御前の三人の女性に絞ってみました。

女性リーダーの先駆け、北条政子

女性リーダーの先駆け、北条政子

まずは『鎌倉殿の13人』の主役の一人、北条政子に目を向けてみましょう。鎌倉幕府初代征夷大将軍・源頼朝の妻“御台所”から、夫亡き後の“尼御台”を経て、のちに政を司る“尼将軍”にまでなった政子。悪女という説もあるなか、ドラマでは、三谷幸喜さんの巧みな脚本と小池栄子さんの見事な演技によって、母としての強さと弱さ、優しさと厳しさ、妻としての喜びや悲しみ、愛らしさや慎ましさといった、女性の多彩な面を見せてくれる魅力的なキャラクターに描かれていました。鎌倉幕府という新しい武家権力が台頭していく激動の時代のなかで、血で血を洗う権力争いや様々な陰謀に振り回され、我が子や身内を次々と亡くし、心を痛めながらも、最終的には御家人たちをまとめ、承久の乱を勝利に導いた政子の姿は、今求められる女性リーダー像のパイオニアだったように思えます。
晩年の政子は、勝長寿院(現在は廃寺)の屋敷に住み、嘉禄元年(1225年)、69歳で死去し、そこで荼毘に付されたという説が有力ですが、現在、政子の墓とされているものは二つあります。まず、神奈川県鎌倉市扇ヶ谷にある寿福寺・裏手奥の “やぐら”内の五輪塔(写真)。すぐそばには次男の第3代将軍・実朝の墓とされる五輪塔もあります。もう一つは、鎌倉市大町にあるツツジの名所としても知られる安養院の本堂裏手の石塔。政子の戒名が“安養院殿如実妙観大禅定尼”であることから、政子の供養塔ともいわれ、本堂には有名な政子の像が安置されています。
どちらの場所も故人の繋がりを感じさせ、諸説ありますから、本当の墓かどうか真偽の程は分かりません。歴史学者になったつもりで改めて分析・検証してみるのも、故人を大切に想う供養の一つの在り方かもしれませんね。もちろん、政子の命日とされる7月11日にその地を訪れ、彼女の劇的な人生に思いを馳せ手を合わせてみるのも、過去の偉人に敬意を示す大切な供養の行為といえるでしょう。
政子にまつわるイベントとして、彼女が長女・大姫の病気治癒祈願に参詣したと伝わる日向山霊山寺(宝城坊)のある伊勢原市では、毎年10月、『道灌まつり』のなかで、有名人が政子に扮して行進する「北条政子日向薬師参詣行列」が行われています。こうした地域の催事に歴史上の偉人を取り上げていくことは、後世にその名を継承していく重要な供養だと思います。

参考・参照サイト
鎌倉観光公式ガイド
鎌倉観光公式ガイド
東京新聞 TOKYO Web

幼き頃から許嫁を想い続けた大姫

幼き頃から許嫁を想い続けた大姫

続いては、政子と頼朝の長女・大姫。大姫といえば、木曽義高との悲恋が広く知られています。二人は、頼朝との争いを避けようとした源義仲(木曽義仲)が、嫡男・義高を大姫の許嫁として人質に差し出したことで出会います。寿永2年(1183年)、大姫6歳、義高11歳のとき。1年余、鎌倉で共に過ごすうち大姫は義高を慕うようになりますが、その後、父・頼朝は義仲を討ち、将来の謀反を恐れて義高も殺害。それを知った大姫は、悲しみに暮れて病がちになり、義仲を想い続けながら、建久八年(1197年)、二十歳という若さで亡くなっています。二人の物語は共感を呼び、江戸時代の能や歌舞伎、浄瑠璃などの題材として扱われ、長く継承されてきました。大河ドラマでは、愛する人を失い悲嘆に暮れる大姫を、南沙良さんが演じて強い印象を残しました。
大姫ゆかりの場所としては、彼女の守本尊と伝わる地蔵尊を祀った鎌倉市扇ヶ谷の岩船地蔵堂や、頼朝が大姫の治癒祈願のために参詣したと伝わる伊勢原市の日向薬師などもありますが、ここでは鎌倉市大船、常楽寺近くにある目立たない場所を取り上げてみましょう。寺の裏山を中腹まで登ったところに現れる小さな祠…これが大姫の墓といわれています。さらに小路を登ったすぐ上には、木曽塚という首塚があります。義高の墓です(写真)。つまり、悲しい結末を迎えた二人は現在、静かな場所にひっそりと寄り添うように眠っていることになります。実際には北条泰時の娘の墓という説や、大姫は勝長寿院に葬られたという説もあり、この場所は、添い遂げられなかった二人の想いを叶えてあげようと、後世の人々が作り上げてきた伝説かもしれませんが、それを信じたくなります。そういう供養の形があってもいいのではないでしょうか。
ちなみに、義高が頼朝の追手に捕まり最期のときを迎えた埼玉県狭山市には、政子が義高を供養するために建てたとされる清水八幡宮があります。近くの入間川河川敷では、毎年5月に義高を偲び、たくさんの鯉のぼりを揚げるイベントが開催されています。義高、享年12歳。今でいえばまだ小学6年生ですから、空を泳ぐ鯉のぼりに、幼くして命を絶たれた無念もいくらか慰められていることでしょう。

参考・参照サイト
鎌倉観光公式ガイド
埼玉新聞ホームページ(2022年5月4日付)

各地に終焉の地がある静御前

各地に終焉の地がある静御前

最後にご紹介したいもう一人は、大姫と同じく鎌倉時代の悲劇のヒロイン、静御前。彼女は歌舞“白拍子”の芸人で、源義経から寵愛を受けた愛妾でした。義経は平家を滅亡させた功労者でしたが、兄・頼朝と対立し朝敵とみなされたことで、二人の愛は引き裂かれる形になります。吉野山で捕らえられて鎌倉に送られた静御前は、1186年(文治2年)4月8日、命じられて頼朝の前で舞を披露しますが、義経を慕う歌を唄ったため、頼朝の逆鱗に触れます。そのとき間を取り成し命を助けたのが政子でした。その後、病気快復祈願に勝長寿院を訪れていた大姫の前でも舞ったと伝えられています。頼朝によって共に愛する人と引き離された静御前と大姫。このとき二人は特別なシンパシーで通じ合ったことでしょう。ドラマで静御前を演じたのは石橋静河さん。見事な舞と唄で義経に寄せる想いを伝えてくれました。
静御前のその後の消息は不明とされますが、終焉の地といわれる場所は、北は岩手県から南は大分県まで、全国各地に驚くほど存在します。これは静御前が人々から愛され、義経との悲恋が各地で語り継がれてきた証でもありましょう。数ある静御前ゆかりの地のなかから、彼女が頼朝の前で舞を演じたとされる、鎌倉市雪ノ下にある鶴岡八幡宮をご紹介します。
“しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな”(静、静と私の名をあの人が繰り返し呼んだ頃に今一度戻りたい)。義経を想うその歌が頼朝の怒りを買ったとはいえ、彼女の舞がその場にいた人を感動させたことは、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』に記されているほどです。鶴岡八幡宮では、現在でも「静の舞」を見ることができます。鎌倉市で毎年4月に催される春の恒例行事『鎌倉まつり』において、鶴岡八幡宮の舞殿(写真)で「静の舞」が奉納されます。コロナ禍の影響で近年の開催は不透明な部分もありますが、皆様も機会があれば、静御前の供養の意味も込めて観覧し、約800年前の悲恋に思いを馳せてみてはいかがでしょう。

『鎌倉殿の13人』で描かれたように、権力を争う愚かな戦いのもとで哀しみの代償を負うのは、いつの世も女性や子ども、そして普通の人たち。新年こそ、争いのない平和な世界になってほしいものです。それが、歴史のなかで犠牲になってきた方たちへの一番の供養になる訳ですから。

参考・参照サイト
鎌倉観光公式ガイド 鎌倉まつり
You Tube 第64回鎌倉まつり「静の舞」オンライン配信

供養の日トップページへ戻る