全国の供養慣習めぐり 〜 石川県の巻 〜

23/4/3

 日本の供養慣習は、全国各地の慣わしやしきたり等によっても異なり、地域の特性や人々の暮らし、歴史に根付いて大切な行事・催事として続いているものがあります。今回は、都道府県ごとの独特な供養の慣習や行事をご紹介する不定期シリーズの第4弾として、日本海に面した北陸地方の石川県を取り上げます。石川県に残る各地の伝統的な供養の行事や話題をご紹介し、その歴史や由来、そこに込められた先人たちの想いを知ることで、供養についてさらに興味を持っていただければと思います。

地域の伝統工芸に根ざした供養の儀式

地域の伝統工芸に根ざした供養の儀式

石川県は、もともと加賀藩が学問や文芸を奨励したことから、「輪島塗」、「加賀友禅」、「九谷焼」などの伝統文化・工芸が古くから栄え、芸術性の高い伝統技術が現在まで継承されています。当然、それぞれの文化や技術に対する感謝の想いも地域に深く根付いており、各業界で先人たちへの敬意を込めた様々な供養の儀式も行われています。ここでは、その中から「加賀友禅」にまつわる催事を取り上げたいと思います。
「加賀友禅」は、江戸時代の扇・染物絵師の宮崎友禅斎が、金沢で確立した着物の染色技法と、その作品ことをいい、藍・黄土・臙脂・緑・紫の5色をベースに描く絵画調の染物は、いまも幅広い世代に人気です。この伝統工芸品に携わってこられた先人の友禅作家の霊を供養するとともに、今後の「加賀友禅」の繁栄を願って行われる毎年恒例の行事が、毎年6月上旬に行われる「加賀友禅燈ろう流し」です。通常は、有名な「金沢百万石まつり」のメイン行事「百万石行列」の前日に協賛行事として開催されますが、ここ数年は、前回時に発生した火災やコロナ禍の影響で実施が見送られてきました。昨年ようやく4年振りに再開され、以前と変わらぬ賑わいを見せました。燈ろう流しの舞台は、金沢市内を流れる浅野川。この川では、かつて「加賀友禅」の余分な糊や染料を清涼な水で洗い流す工程にあたる“友禅流し”が盛んに行われていました。つまり、この燈ろう流しは、“水の芸術”といわれる「加賀友禅」と川のつながりに感謝を表す儀式なのです。
当日は、龍国寺の住職による供養の読経が行われ、天神橋から浅野川大橋の間で、和紙でつくられた燈ろうが上流から次々に流され、友禅作家や地元の子どもたちによって手描きされた草花などの友禅模様が、情緒豊かな表情を見せながら川面を照らしていきます。昨年の場合、以前の火事を受けて、明かりには実際のロウソクではなく、ロウソク型のLED照明が使用され、数も約1200個から約600個に減りましたが、ロマンチックな幻想的世界に多くの観客が魅了されました。
地元の産業に由来し、広く愛される「加賀友禅燈ろう流し」。その地域にしかない伝統工芸に敬意を払い、業界の先人たちの御霊を慰め、彼らの努力と功績に感謝しながら、今後も遺志を受け継いで発展させていこうとする地元の方々の想いには、まさに供養の大切な精神をみる気がします。

参考・参照サイト
ISHIKAWA 19

全国でも珍しいお盆の風習「キリコ」

全国でも珍しいお盆の風習「キリコ」

引用
ISHIKAWA 19

石川県でキリコ(切籠) といえば、勇壮な「能登キリコ祭り」を盛り上げる巨大な燈ろうが浮かびますが、金沢市と周辺地域では、木と紙でできた箱のような燈ろうも「キリコ」と呼ばれ、お盆の墓参りに持参して、ロウソクに火を灯し墓前のロープに吊るすという全国的に珍しい風習があります。お墓に多くの「キリコ」が揺れる光景は、金沢独自の夏の伝統的な風物詩です。その由来は先祖の“迎え火”を護るために使われるようになったといわれていますが、確かな説とはいえないようです。
お盆の期間は全国的には「旧盆」と呼ばれる8月15日が主流で、石川県の多くもそうですが、金沢市だけは7月15日の「新盆」がお盆にあたります。7月に入ると金沢ではお盆に合わせてスーパーや薬局等の店頭に、「キリコ」がずらっと並ぶ風景が見られます。この時期、金沢では約30万個の「キリコ」が出回るそうです。
旧来の伝統的な「箱キリコ」は、使用後に釘を分別して廃棄物として処分をしなければならずコストが掛かるため、廃止の危機も叫ばれており、近年は釘を使用しない板状の「板キリコ」を墓前に吊るすケースが増えてきています。箱状・板状、形は違えど「キリコ」に共通するのは、持参した人の名前を記入する部分があり、誰が墓参りに来たのかが分かるようになっていること。金沢ならではの風習を無くさないようにと願い「板キリコ」を開発した中本製箸の故・中本実会長は、地元の金沢経済新聞の記事(2012.06.04付)で「キリコを見れば『誰それが墓参に来てくれた』と分かり、温かい気持ちになる。どんな形であれ、キリコは人と人のつながりを実感できる金沢の良き風習」とコメントされています。この「キリコ」は、先祖のことを共通の同じ場所で想い、お互いの“つながり”を確認し合える、素晴らしい供養の風習といえるのではないでしょうか。最近は「風鈴キリコ」「紙キリコ」といった新しいタイプも出て、金沢の「キリコ」売り場は賑やかになっているようです。
「キリコ」は墓前に吊るされた後、お盆の最終日に行われる“送り火”で役目を終えます。金沢市東山の多くのお寺ではお施餓鬼法要のあと、墓地のすべての「キリコ」にロウソクの灯を点し、銅鑼や鉢の音に合わせ読経・行道して、精霊送りをします。暗闇の中に「キリコ」の淡い光が並ぶ幻想的な光景は、金沢伝統の供養の儀式として、これからも次世代へと引き継がれていくことでしょう。

参考・参照サイト
ISHIKAWA 19
中日新聞

400年以上も続く地元の英雄への敬意

400年以上も続く地元の英雄への敬意

引用
ほっと石川旅ねっと

地域ぐるみの
たとえば旅先の街を歩いていて、自分はそれまで知らなかったけれど、その地域では有名で、地元の人々からこよなく愛されている人物の慰霊碑や記念碑などを見かけたりしたことはありませんか。教科書等に取り上げられるほどの知名度はなくとも、地域にとっては大切な人物であり重要な存在…そんな地域ゆかりの偉人を後世に語り継いでいくことは、先人の供養という意味でも大切なことだと思います。石川県の南西に位置する川北町には、そうした知る人ぞ知る戦国時代の剣豪、草深甚四郎(くさぶかじんしろう)を祀る慰霊碑と、ゆかりの行事が現在も残されていますのでご紹介しましょう。
加賀国草深村(現在の川北町)に生まれた草深甚四郎(別名:時信)は、戦国時代末期、各地で剣技が発展するなか、加賀の国に現れた剣豪の一人です。南北朝時代の新田義貞の武将、畑時能の子孫といわれ、幼少時から剣術を独学で学び、13歳で郷里を離れ、武者修行を積んだと伝えられています。そして、29歳のときに帰郷し、「深甚流(しんじんりゅう)」を起こして多くの子弟に教え、その後、流派は加賀藩の武学校・経武館に受け継がれていったとのこと。甚四郎は、ディープな歴史好きや熱心な時代小説ファンからは知られている伝説の武将で、なかでも将軍足利義輝に剣術を指南した人物とされる剣聖・塚原卜伝との戦いにおいて、槍で勝ち、太刀で敗れ、お互いに弟子入りを志願し合ったというエピソードは有名です。
川北町にある草深甚四郎の墓と碑は、町の指定文化財に指定されています。町民は、親しみを込めて“甚四郎先生”と呼び、塚原卜伝と戦った木刀が奉納されている土室白山神社をいまも大切に守り続けています。また同町では、昭和11年から毎年、甚四郎の功績を偲ぶ慰霊祭が行われており、併せて県内の剣士が集う「草深奉納剣道大会」も10月に開催。自分が遺した剣術への想いが、400年以上のときを経ても地元の剣道大会という形で継承されているなんて、さすがの剣豪も草葉の陰から喜んでいることでしょう。川北町に引き継がれてきた、地元の英雄に対する敬愛に満ちた取り組みは、子どもたちの情操教育という面においても、先祖に感謝する精神や供養の気持ちを養う素晴らしい機会になっているのではないでしょうか。

参考・参照サイト
ほっと石川旅ねっと
JAPAN 47 GO

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