24/6/3
都道府県ごとの供養の慣習や行事をご紹介する不定期シリーズ。その第6弾として今回は、東北地方の北東部、太平洋に面した岩手県を取り上げ、県各地の供養にまつわる伝統的な行事やユニークな話題をご紹介します。その歴史や由来、そこに込められた先人たちの想いを知ることで、供養についてさらに興味を持っていただければと思います。
岩手県のほぼ全域に残る郷土芸能の一つに、鹿踊(ししおどり)というものがあります。鹿の頭をかたどったものを被った者が8頭もしくは12頭で1組となり、太鼓や祭り囃子に合わせて、跳びはねて踊るものです。踊り手が演奏を兼ねるかどうかで、「太鼓踊系」と「幕踊系」の二つの系統に大別されます。「太鼓踊系」は踊り手が腹につけた締太鼓を叩きながら踊るもので県南部に多く、流派も三つあります。一方の「幕踊系」は県中北部に多く、全身を覆う大きな布幕を翻して踊るのが特徴的です。その地がかつて盛岡藩か仙台藩だったかによって踊りのスタイルは違ってくるようですが、どれも盆行事や各地の祭礼などに神社の境内や民家の庭で、災厄を祓い、五穀豊穣、先祖供養の祈りを込めて踊られるのは同じです。
鹿踊は地域によって“獅子踊”と記すところもありますが、正月に目にする獅子舞(ししまい)とは発祥も意味合いも違います。獅子舞が奈良時代に中東や西アジアなどから中国・朝鮮を経て伝わった“霊獣”ライオンにまつわる渡来文化であるのに対し、鹿踊は奈良時代以前から受け継がれてきた日本古来の芸能です。
そもそもその起源はというと諸説存在します。狩猟で犠牲になった鹿の供養で始められたという説や、鹿を助けるために猟銃の弾を受けて亡くなった女性の墓で、八頭の鹿が柳の枝をくわえて回った姿を見た夫が、供養のために鹿の皮を着て踊ったのが始まりとする説など。岩手県が誇る童話作家・宮沢賢治も、絵本『鹿踊りのはじまり』で、鹿が踊る場面に遭遇した農夫の物語として鹿踊の始まりを描いています。いずれにせよ、古来、鹿が神の使いとして崇められていたことに加え、「鹿(しし)」が「山で獲った獣の肉」も指すことから、昔の人が自然に深い畏敬の念を抱き、獲れた獣を感謝していただき、獣の霊を鎮め、供養するために踊ったということは十分考えられるでしょう。
獣に対する供養がいつの間にか、お盆に踊られる供養の踊りに変化し、そこに豊穣を願う意味も加わって受け継がれてきた鹿踊。近年、奥州市江刺では、「太鼓踊系」の踊り手約100名が同じ演目を踊る「百鹿大群舞」を祭りのパレードで披露し、大きな話題となりました。古くから地域に根づき、親しまれてきた鹿踊という供養の行事は、これからも時代に応じて進化しながら継承されていくことでしょう。
引用
文化遺産オンライン
岩手県に広く伝わる代表的な民間信仰に“まいりのほとけ”と呼ばれる習俗があります。県中・西南部の花巻、遠野、和賀、江刺などに多いこの催事は、毎年旧暦10月の定められた日に、仏画の掛け軸や木像などを祀る家やお堂に一族や近所の人たちが賽銭や米などのお供えをもってお参りし、先祖供養と家内安全を祈る習わしで、祭祀月から「十月仏」とも呼ばれています。訪れた者には精進料理などが振る舞われ、ともに食事をして賑やかなひとときを過ごします。
お参りの対象としての掛け軸や木像は、聖徳太子を描いたものが多く、愛馬・黒駒にまたがって富士山を飛び越える姿や、用明天皇を看病したり、物部氏と戦う絵像など、様々な姿で数多く祀られています。ほかにも、阿弥陀如来、善導大師、地蔵菩薩、不動明王、釈迦涅槃図の仏画、「南無阿弥陀仏」などの名号もあります。家によっては、例えば仏間に大小約20の掛け軸が飾られているところもあるようです。
“まいりのほとけ”の起源については不明なことが多いですが、その広まりについては二説あるといわれます。一つは、まだ菩提寺がなかった時代、地域の亡くなった人の枕元に掛け軸を掲げて極楽浄土での往生を願った信仰から始まったとされる説。もう一つは、是信坊(ぜしんぼう)などの僧たちが岩手県に浄土真宗を広めていく際に、開祖・親鸞が聖徳太子を崇めていた話を伝えたことが関係するともいわれています。
いずれにせよ、中世から現在まで、聖徳太子への信仰が息づく“まいりのほとけ”が山の集落で続く、地元の人たちの祖先を大事にする信仰心には驚かされます。しかし、近年は農山村の過疎化や高齢化とともに “まいりのほとけ”を催す家も少なくなってきたといいます。“まいりのほとけ”に限らず、こうした日本各地の伝統的な供養の儀式が消えゆくことは、一つの文化が消失することを意味します。長きにわたって祖先から続いてきた文化の灯し火を、絶やさずに守り継承し続けていくこと…それは現代を生きる我々に求められる、最も大切な供養の行いといえるかもしれません。
参考・参照サイト
文化遺産オンライン
いわての文化情報大辞典
岩手県の県庁所在地・盛岡市を訪れると、誰もが“あること”に気づくでしょう。それは街のあちこちに同県出身の石川啄木の歌碑が見られることです。盛岡駅前広場、市役所裏、街のメインストリート、盛岡城跡公園、中津川にかかる富士見橋、天満宮境内、中学校の校門前、岩山展望台などに、その場所と啄木の人生を絡めた短歌や、その風景にふさわしい歌が刻まれています。
日本を代表する歌人・詩人の石川啄木は、明治18年2月20日、現在の盛岡市日戸に生まれました。啄木は中学中退後、地元岩手や東京、北海道で新聞社や代用教員として働きながら、病弱な体、借金苦のなかで創作活動を続け、独特の歌風で歌壇内外から注目される存在となります。しかし、東京在住時に肺結核を患い、明治45年4月13日に26歳の若さで死去しました。
病気で故郷に戻れないまま短い生涯を終えた歌人・石川啄木。そんな彼を偲び、啄木の生誕の地・盛岡では、毎年初夏(5〜6月)、郷里の渋民地区にある姫神ホールで「啄木祭」を開催し、地元が生んだ偉人に想いを寄せ、啄木の顕彰に努めています。当日はそれぞれ啄木にちなんだ、地元の渋民小学校鼓笛隊による演奏、渋民中学校の群読劇、コーラスグループ「コールすずらん」による合唱が披露され、加えて毎年ゲストを招いてのトークイベントやシンポジウムなども開催されます。
「啄木祭」は、年に一度、啄木に親しみ、啄木を語る、啄木づくしのイベントの日として、岩手県民、盛岡市民に広く定着し、いまや県外からも多くのファンが駆けつける伝統行事となっています。まさに市民と街が一体となって、地元出身の歴史的な人物を誇りに思い、称え、敬い、偲び、供養する特別な日。それは同時に、啄木を愛する市民同士が地元に対する愛情を互いに確かめ合う日でもあるようです。
石川啄木に関わる地元催事は、ほかにも啄木の誕生月の毎年二月に「啄木かるた大会」、「啄木祭」の近づく頃に広く募った俳句の各賞発表と当日投句による俳句大会を行う「啄木祭全国俳句大会」が催され、「啄木祭」を迎える街の雰囲気を盛り上げています。郷里を愛した地元の偉人を偲ぶ行事が、現在も地域を一つにしているなんて、こんなに素敵な供養のカタチはないでしょう。
今年2024年の「啄木祭」は、6月1日(日)に開催されます。ぜひ盛岡市渋民を訪れて、市民の啄木愛に触れてみてください。
参考・参照サイト
岩手県公式観光サイト いわての旅
盛岡の歴史と文化 観光情報