24/11/20
都道府県ごとの供養の慣習や行事をご紹介する不定期シリーズ。その第7弾として今回は、四国地方の北西部、瀬戸内海に面した愛媛県を取り上げ、県各地の供養にまつわる伝統的な行事やユニークな話題をご紹介します。その歴史や由来、そこに込められた先人たちの想いを知ることで、供養についてさらに興味を持っていただければと思います。
引用
文化庁広報誌ぶんかる
お盆になると、全国各地でユニークな行事が多く見られますが、四国最西端の日本一細長い半島として知られる愛媛県佐田岬半島に位置する伊方町では、この時期、同じ町内においていくつもの個性的な行事が行われます。この伊方町は半島西側の旧三崎町、半島中央部の旧瀬戸町、半島東側の旧伊方町の三地域で構成され、各地域・家庭のお盆のしきたりや風習には、それぞれに違う特色があります。その民族的な多様性により、平成22年には「我が国の盆行事、特に初盆の行事を考える上で貴重なもの」(文化庁)として、国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選ばれました。その代表的な盆行事としては、三崎地域の松地区に伝わる『モウリョウ』、『モウナの人形回し』、瀬戸地域の川之浜・大久・大江地区に伝承される『オショロブネ流し』などが挙げられ、それぞれに初盆を迎える家の人々が中心となって、新仏の供養が行われます。
例えば、旧三崎町・平磯地区の『モウリョウ』は女人禁制の儀式で、新盆を迎えた家の男性たちがそれぞれ長い旗と笹竹を持って、フクロイセと呼ばれる浜に集まり、鉦・太鼓を叩いて時計回りにまわります。終わると笹を海に流し、自分の歳の数だけ浜辺の“まなご石”と呼ばれる白石を拾って近くの祠(ほこら)に供えます。同じ『モウリョウ』でも寺の境内で輪になってぐるぐる回ったり,地区ごとに行事の違いが見られるようです。一方、松地区の『モウナの人形回し』も個性的です。竹を十字に組んで高さ約4メートル先に大きな人形を作って女性の着物を着せ、それを地面の穴に刺して、初盆の家の男性たちが“モーナ、モーナ、モミドブ”と掛け声を唱えながら、新仏の数だけぐるぐる回します。また、川之浜・大久・大江地区の『オショロブネ流し』は、藁や竹で作った大きな船に、初盆の家の提灯、亡くなった人を思わせる市松人形、ナスビやカボチャで作った船頭などを乗せ、供養の想いを込めて海に流すものです。
佐田岬半島の盆行事は、一つの町内で同じ時期にバラエティに富んだ儀式が行われることがとてもユニークですが、大切な家族や仲間を亡くした人にとって、どれも大切な供養の行事であることには変わりありません。地域の高齢化で行事の存続が危ぶまれているところも多いと聞きますが、故郷に独自の盆行事が遺っているって素敵なことですから、ずっと継承されていってほしいものです。
参考・参照サイト
文化庁広報誌ぶんかる
いよ観ネット
愛媛県を代表する観光スポットに、大洲市の白滝公園があります。ここは「日本の紅葉百選」にも選定されている名所の一つで、紅葉の美しさと「雄滝」「雌滝」「落合の滝」「合歓の滝」などの七つの滝が有名ですが、戦国時代の悲話伝説が残る場所としても知られます。
戦国時代の1570年、大洲の米津城は土佐の長宗我部氏に攻められ落城しました。このとき、城主の奥方・るり姫は、白滝に追い詰められ、2歳の世継ぎ尊雄丸を抱いて滝つぼに身を投じたといわれています。現在、滝の落口近くには「るり姫塚」、滝つぼ近くには幼子を抱いた「るり姫観音」が祀られており、地元住民の崇敬の対象となっています。
この悲しい「るり姫伝説」に因んで、白滝公園では毎年11月23日の祝日に、るり姫の供養を行う『白滝るり姫まつり』が開催されており、大洲市恒例の観光イベントになっています。お祭り当日は、西瀧寺での供養の儀式からスタート。そして、地元小学校に通う20名余りの女児が艶やかな衣装を身にまとって“るり姫”に扮し、花でつくられた神輿を男児が担いで行進する“稚児行列”が行われます。一行は西滝寺から商店街をねり歩いた後、るり姫が身を投げたとされる白滝最大の「雌滝」の落口を目指します。到着後は「るり姫塚」で法要を実施。そして、参加児童や多くの観光客が見守るなか、正午のサイレンを合図に、この場所から大人たちの手によって約60メートル下の滝つぼに向かって、るり姫の霊を慰めるための“花みこしの投げ入れ”が行われます。この行事の後は、白滝公園では舞踊や豊年踊りなどの郷土芸能、地元産の特産品市や餅つき大会などが行われ、多くの人出で賑わいます。
ちょうど『白滝るり姫まつり』が開催される頃は、白滝公園の紅葉がいちばん美しい時期でもあり、お祭りの期間中は夕方からライトアップも実施されているようです。皆さんも秋の白滝公園を訪れ、地域に大切に受け継がれる戦国ヒロインの供養の伝統儀式を、紅葉狩りの思い出に加えてみてはいかがでしょうか。
今年も師走の足音が近づき、そろそろお正月の話題が聞こえる季節となりました。愛媛県には、12月、お正月の前にその年に亡くなられた新しい仏様を偲び、その家族と親族で少し早めの正月を行う「巳正月」という行事があるのをご存知でしょうか。巳正月は、古くから伝承されてきた愛媛独特の慣習で、近親者が墓地に集まってしめ飾りやお餅を供えて、墓前で餅を焼いて食べながら供養する行事です。愛媛では、この季節、こうした光景があちこちの墓地で見られるようです。
同じ県内でも開催日は地域差があり、中予地方や南予地方では12 月の巳の日と午の日にかけて行うことから「已午(みんま、みうま)」といわれ、東予地方では辰の日と巳の日にかけて行われるため「辰巳(たつみ)」とも呼ばれているそうです。
巳正月の起源としては、南北朝時代、伊予の国の兵士が、吹雪に襲われ次々と凍死し、同郷の兵士が正月を迎えられなかった死者の無念を慰める儀式として始めたものが今に伝わったとの説や、豊臣秀吉の朝鮮出兵の帰途、戦死した兵士を弔うために海岸で餅をつき、それを供えた後で食べ合ったという説など、地域によって言い伝えはいろいろ。いずれにせよ、戦で亡くなった方を供養するために行った儀式が、地域に広がっていったようです。
なかには、お墓の前で餅をばらばらに切ったり、炙った餅を親類縁者と引っ張り合い餅が長く延びるほど亡くなった方に喜ばれるとの言い伝えがあるなど、お餅の切り方や食べ方も地域によって多少違いがあるようです。餅を食べ合う意味としては、遺された者たちで物を分け合って仲良く暮らしていくので安心してほしいという想いを示すためともいわれます。共通するのは、お墓参りの間は一切無言で、誰かと出会っても喋らず、挨拶もしてはいけないという決まりがあることです。昔は、「辰の日」または「巳の日」の深夜からお墓参りを行っていましたが、現在は昼間の行事として受け継がれているようです。
戦のなかで無念の想いを胸に散っていった、名もなき若き生命を弔った先祖たちは、のちの時代に平和が訪れることを強く願って供養の儀式を行ったのではないでしょうか。愛媛県のこの素晴らしい伝統「巳正月」に息づく想いは、世界にいまだ争いの火種が燻る現在だからこそ、なおさら大切にしたいものです。
参考・参照サイト
愛媛県生涯学習センター