全国の供養慣習めぐり 〜 大阪府の巻 〜

26/2/26

都道府県ごとの供養の慣習や行事をご紹介する不定期シリーズ。その第9弾として今回は、国内2位の経済規模を誇る西日本の経済・交通の中心地・大阪府を取り上げ、府内各地の供養にまつわる伝統的な行事やユニークな話題をご紹介します。その歴史や由来、そこに込められた先人たちの想いを知ることで、供養についてさらに興味を持っていただければと思います。

産地と消費地を結ぶ供養の“かけはし”

産地と消費地を結ぶ供養の“かけはし”

大阪市東淀川区、聖徳太子が創建したとされる瑞光寺の境内には、世界でも類を見ない珍しい橋があります。「雪鯨(せつげい)橋(きょう)」、別名「くじら橋」とも呼ばれる橋です。幅約3m、長さ約6mの石造りのアーチ橋ですが、欄干はすべて本物のくじらの骨で造られており、手すり部分は鯨の顎骨を用い、片側4本の束柱の間に鯨の肩甲骨がはめ込まれています。「くじらにまつわる碑や塔などは捕鯨の歴史を持つ海岸部では今も見られるところはありますが、大阪の都市部になぜ?」多くの方がそう思われることでしょう。実はこの橋、江戸時代に生きた人々の「命に対する深い葛藤と、溢れるほどの感謝」が形になった供養のシンボルなのです。
寺伝によれば、この橋の始まりは今から270年前の1756年に遡ります。当時、同寺住職の潭住(たんじゅう)禅師が行脚中、捕鯨を生業とする南紀太地浦(現在の和歌山県太地町)を訪れた際、不漁に苦しむ村の代表者から豊漁祈願を頼まれ、一度は「殺生は五戒の一つ」として断ったものの、村人の苦しみに同情して祈願を行ったところ豊漁となり、村は危機を脱したそうです。後日、禅師は村人から感謝の印として寄進されたくじらの骨18本を使って、くじらの供養のための橋を造ったと伝えられています。 橋は骨の白さから「雪鯨橋」と名づけられ“難波一州の名奇”と評されました。くじらの骨は歳月とともに風化してしまうため、現在まで50年前後の間隔で何度も替えられ、そのたびに和歌山県太地町の関係者を通じて新たな骨が寄進されてきました。現在の欄干は6代目。調査捕鯨で調達したクジラの骨が使われているそうです。
瑞光寺にくじらの骨で造られた橋があるのは、こうした歴史的背景が理由ですが、鯨漁と直接関連しない都市部に、鯨供養にまつわる遺構が存在するのは全国でも稀有なことです。江戸時代の大阪は鯨肉の主要な消費地であり、紀州の漁民と鯨の消費地の繋がりを示す象徴的存在だったともいえます。今でも毎年5月になると、太地町から児童が修学旅行で瑞光寺を訪れ、地元に伝わる「くじら踊り」を奉納しています。270年の時を経ても続く、こうした産地と消費地のつながりは、まさに生き物の命に対する感謝と供養のバトンの継承であり、その架け橋となっているのが「雪鯨橋」といえましょう。

参考・参照サイト
大阪市ホームページ
JAPAN FORWARD

故人の遺骨で仏様を造る「骨佛」

故人の遺骨で仏様を造る「骨佛」

大阪市天王寺区にある一心寺は、「骨佛」の寺として広く知られています。「骨佛」とは、納骨された遺骨を原料として造立された阿弥陀如来像のこと。一心寺では、宗派を問わず全国から集まった遺骨で仏様を造る「骨佛」の伝統が130年以上にわたって受け継がれています。
この独特な供養が始まったのは明治20(1887)年。一心寺では安政3(1856)年から、飢えと渇きに苦しむ霊魂を供養する“お施餓鬼(せがき)法要”を常時受け入れており、当時は納骨に訪れる人が後を絶たなかったそうです。そこで、遺骨をもっと丁重に祀るために考えられたのが「骨佛」でした。もともと日本では、故人の遺骨をお寺に納め永代にわたって供養することや、仏像を造って礼拝することは功徳とされてきました。その意味で、遺族にとって大切な人の遺骨で仏様を造り、それを拝むことのできる「骨佛」は、仏様への崇拝と先祖供養の精神が融合した究極の供養の形といえるかもしれません。
一心寺の納骨堂には、これまで約200万人にも及ぶ故人が「骨佛」として阿弥陀仏の姿になって祀られています。明治20年の1体目から10年ごとに造立され、戦災で失われたものを除き、現在8体を安置。今日では大阪人の誇りとされ、平成17(2005)年には大阪市の無形民俗文化財に指定されました。新しい「骨佛」の造立完了を祝う“開眼法要”の時期には、全国から多くの参拝者が押し寄せ、境内は熱気に包まれます。平成29年(2017)の「骨佛」は22万人の遺骨で造られたとか。令和3年から、骨が増えすぎたため納骨の骨壷の大きさなどに条件が設けられました。次の開眼は令和9(2027)年初夏の予定です。
一心寺のこの供養が支持される理由は“温かさ”です。通常、お墓は家族単位の“個”のものですが、「骨佛」であれば、遺族にとって、自分の大切な家族が独りではなく「仏の存在の一部として生き続ける」と感じることができ、大きな救いとなります。納骨料が比較的安価で、誰でも受け入れる門戸の広さも人気の理由。「骨佛」は、人情を重んじて命を大切にし、合理的で誰も取り残さない大阪人気質に合致した供養の仕方といえるかもしれません。また、「形として残り、いつでも会いに行ける」という安心感を提供できることは、“墓を継ぐ人がいない”“墓を持たない”という家庭が増えている現在において、大きな意義を持っているといえそうです。

参考・参照サイト
一心寺ホームページ

菅原道真の御霊を慰める「大阪天神祭」

菅原道真の御霊を慰める「大阪天神祭」

京都の祇園祭、東京の神田祭と並び、日本三大祭の一つに数えられる「大阪天神祭」。毎年6月下旬から7月25日にかけての約1ヶ月間、大阪の夏の風物詩として、大阪市北区の大阪天満宮を中心に様々な行事が行われます。
天暦5年(951年)以来、千年以上の歴史を誇るこの日本有数の大祭は、今でこそ国内外から多くの参拝者・見物客が集まる大イベントですが、もともとは菅原道真を御祭神とする大阪天満宮において、神霊を慰め、地域の安寧と人々の幸せを祈ることが目的でした。菅原道真は平安時代、学者・政治家として名を残しますが、政争により大宰府へ左遷され、失意のうちに亡くなったとされています。彼の死後、都では天変地異や疫病が相次ぎ、道真の怨霊によるものとして恐れられたそうです。そのため、天変地異を恐れる人々が、平穏無事な世の中を祈願し、神が荒ぶる事のないよう祀り鎮めることを目的として祭礼が行われたとされています。川に流した神鉾に罪や穢れを託し、海へ流し去ることで疫病退散や厄除けを祈願する“鉾流(ほこながし)神事”がその始まりで、当時は川を舞台にした神事が中心でした。商都・大阪にとって水運は命綱、川の神を鎮める意味も含まれていたのでしょう。その後、時代を経るにつれ、菅原道真が学問の神“天神様”として信仰され、大阪が“天下の台所”として繁栄すると、豪商たちが競うように華麗な飾り船や人形を出す豪華絢爛なスタイルへと発展。現在も伝統神事としての厳粛さと、都市祭礼としての華やかさを併せ持つ祭りとして継承されています。
「大阪天神祭」のハイライトは、最終日である25日の“陸渡御(りくとぎょ)”と“船渡御(ふなとぎょ)”。“陸渡御”では、神輿や獅子舞、催太鼓、稚児行列など、総勢3,000人を超える行列が大阪天満宮を出発し、天満の町から大川へと練り歩きます。続く夕刻から夜にかけての“船渡御”では、御鳳輦船(ごほうれんせん)を中心に約100隻の船が大川を進み、提灯の灯りで川面が幻想的に彩られます。この“火と水の祭典”は、神様に活気ある街の様子や、人々が楽しく暮らす姿を、直接見て喜んでもらい、街のさらなる発展を約束してもらうという想いが根底にあります。菅原道真の霊を慰めるために始まった供養の催事が、時代背景や大阪の発展とともに形を変えながら庶民の祭として継承されていくことを、きっと菅原道真も喜んで見守っていることでしょう。

参考・参照サイト
大阪天満宮ホームページ

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